< 魔王信長ワールド / なぜ、織田信長は魔王、第六天魔王と呼ばれるのか? >
なぜ、織田信長は魔王、第六天魔王と呼ばれるのか?
 なぜ、織田信長は第六天魔王と呼ばれるのか?

   武田信玄と書状のやり取りをした際、「第六天魔王信長」と
    署名したことを宣教師フロイスが書簡に書き残していた

■一次資料に書き記された信長の第六天魔王自称
 魔王とは、仏法の敵、悪魔たちの長たる第六天魔王を指す。厳密には、悟りに至らんとする仏道修行を妨げる悪の仏教神をいうが、信長が魔王信長、ないし第六天魔王信長などと呼ばれるのは、彼が実際、そう自称したことによる。
 信長が第六天魔王と自称したとする情報は、宣教師の司祭ルイス・フロイスが書いた書簡(報告書)に見える。
 (洋暦)1573年4月20日付け(和暦で3月)の書簡だが、それによれば、信長は甲斐の武田信玄に宛てた手紙に、「ドイロク・テンノマウオ・ノブナガ」、つまり第六天魔王信長と署名したという。当該資料は一次資料に他ならず、きわめて重い証言である。
 それは、元亀3年(1572年)における武田信玄の西上、上洛に際して、信玄が信長に宛てた書状にテンダイノ・ザスシャモン・シンゲン、つまり天台座主沙門信玄と署名したことに対抗して、その返書に書き記したものであった。
[スサノヲ命=牛頭天王]神は魔王こと第六天魔王と習合する
■実際、信玄が信長を天魔だと罵る書状が残っている
 書状のやり取りは、比叡山焼き討ちの1年半ほど後、日付的には信玄病没の2週間前のことだが、焼き討ちの所行について信玄が仏法を滅ぼす仏敵、天魔、すなわち第六天魔王だと非難したことに対し、居直って「ならばよい、わしは第六天魔王だ」と返書をしたため、そう署名した経緯が考えられる。
 というのは、その直前に信長を天魔だと難じる信玄の書状が残っているからだ。
 醍醐寺に伝わる古文書『醍醐寺理性院文書』の中に、武田信玄が足利義昭の側近、上野秀政に宛てた元亀4年(1573年)正月11日付け書状がそれだが、その中で信玄はこう述べている。  信長、逆乱を企て、山上山下(比叡山)消亡す。〜〜、(信長は)天魔破旬の変化也。
 天魔破旬の破旬とは魔王の本名、いわば諱で、第六天魔王を指し、変化とは化身をいう。つまり信長は第六天魔王の化身だと難じていたのだ。
 こうした経緯からも、フロイスの記録は真実味があり、よって信長が第六天魔王と自称したのは間違いあるまい。

■茶化して魔王を自称したのではない!
 よく信玄を一時の興で茶化しただけと言われるが、それは当たらない。
 信長は、魔王再臨の予言譚をよく咀嚼し、それにのっとって比叡山延暦寺を焼き討ちした。
 その所行が天魔、第六天魔王だとの非難を浴びたわけだが、それ以前に、信長がその化身だとした[スサノヲ=牛頭天王]は、本書で詳細に証したように習合し、同一神化していた。
 従って、信長が「我は魔王でもある」と自覚したことは想像に難くない。
 加えて、こうも言える。
 中世から近世にかけて、東国では第六天魔王の信仰がはやっていた。それは、疫病神を信仰することでかえって、その恩寵を受けられるとの考えに基づくものだが、冥界神スサノヲもそうだし、牛頭天王、陰陽道の冥界神・泰山府君などもそうであった。
 信長は牛頭天王の化身と自認し、それと習合した魔王をおのれだと見なしたのは、決して一時の興によるものではなかったのだ。
 実は、東国に第六天魔王神が、第六天社をもって近世に根強く信仰されていたことが近年、判明してきた。 その社数、数千ともされるが、信長がおのれを擬していた牛頭天王信仰がそうであったように、明治新政府の神仏分離策により、ほぼ全滅に近い解体を余儀なくされた。
 封印された歴史の一端が露呈しているかのようだが、看過できかねないテーマであり、別ページで言及してみたい。

■確固たる信念で仏敵を称した
 世のタブーだった焼き討ち、虐殺も厭わなかった程の信長が、それら所行の正当性を得られるならば仏敵の長・第六天魔王に己を擬すのは必然と言える。その意味で、確固たる信念で魔王を称したのは疑いあるまい。


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